第176回 ボーイ・ミーツ・ガール
こんにちは。牧です。書くのが久しぶり過ぎてびっくりです。
気づけばもう春です。というか今年は冬っぽくはあまりなかったですね。
今日何を話すかあまりまとまらずグタグタ考えてニュース見てたら香川のゲームについて挙げられていましたね。
最近は、趣味ばかりの話しかブログに上がってないし、
大西さん香川のうどんについて書いてたし、
コロナの話とかつまらんし、少し条例について話してから何か本題について話すとします。
やっぱ流行りに乗らないとね!
最近の世の中は世知辛いね~
ボールは投げるな、公園は遊ぶな、川は危ない、それに加えてゲームはするなだってさ。違反しようがしまいが意味がない条例作るくらいなら、方針(ガイドライン)とか広報にすればいいのにわざわざ条例ができちゃうのも民主主義はそっちのけ闇が深いね。条例も定義曖昧だし、普通なら違反して罰則あるなら、法にのっとて条例違反に正当性があるか無いか司法で判決できるけど、罰則もないから条例違反しているか判断する必要はないわけで、そうなると何故この条例通したのか考えると、ネット規制を進めるためかと勘繰るけど、それは香川県ができることじゃないから意味もないし、意味不明だ。
パブリックコメントとか黙秘していることとかの方がもっぱら話題で、ゲーム規制に関してはほとんど言及はされていないね。ところどころある意見として子供の権利違反になるのではとかあるね。確かに県議とかがニュースにあった写真だとおっさんしかいないのはやっぱ不思議だよね。
さて、
今日の本題はボーイ・ミーツ・ガール文学についてです。
昨今の多くの映画や漫画、アニメ、小説等の作品を僕はボーイ・ミーツ・ガール文学と呼びたいです。
ボーイ・ミーツ・ガールないし、ガール・ミーツ・ボーイという言葉をどこかで聞いたことはありませんか?
最近ではガール・ミーツ・ガールでもボーイ・ミーツ・ボーイもあるのかもしれませんが、まあ基本のボーイ・ミーツ・ガールは物語の類型の1つです。
自分も別に文学部でもないので詳しいわけではないけど、ボーイ・ミーツ・ガールってここ20年にライトノベルやアニメ等に特に多い類型だと思うんですよ。
主人公(少年)がヒロイン(少女)に会う。
文面からみたボーイ・ミーツ・ガールの基本設定です。
Wikipedia ではそこから恋に落ちる話としています。
また、訳アリ少女の近辺で起こる騒動に巻き込まれ、それを主人公とヒロインが共に解決するまでが一連の流れと書いてあります。
さて、ボーイ・ミーツ・ガールですが、どういった要件を満たすとボーイ・ミーツ・ガールといえるのでしょうか。
先ほどの、「主人公がヒロインに会う」という点をとればほとんどの作品を網羅することになるでしょう。なので定義からボーイ・ミーツ・ガール作品を見るのではなく、作品からボーイ・ミーツ・ガールの要件をみていきたいと思います。(ただ出典は乏しいので、私の主観でボーイ・ミーツ・ガールと思われる作品を選びました)
ボーイ・ミーツ・ガール作品の例として、ジブリ作品の多くは当てはまりますし「サマーウォーズ」とか「君の名は。」も当てはまりますね。小説においても、米澤穂信作の古典部シリーズや「ひぐらしのなく頃に」、有川浩作品などがありますね。
それでは共通点とその必要性をみていきます。
まず、少年と少女がよく使われるイメージですが、少年と少女である必要性はないでしょう。
有川浩作品では社会人同士でも行われていますからね。
次に、https://novelists-cards.com/?p=83この人によるとボーイ・ミーツ・ガールは二度会うものであるそうです。サマーウォーズとかは二度会っていないですし、この人も二度会うことの理由としてヒロインを紹介するためと再開を期待させるためと挙げていることから、ボーイ・ミーツ・ガールで有効な手段であって必要条件ではなさそうですね。
次に恋に落ちることがボーイ・ミーツ・ガールのなりいき的によくある形ですが、僕は恋に落ちるなくても良いと思います。ボーイないしガールがガールないしボーイに惹(魅)かれることは必要だと思いますが、その結果を恋に落ち着かせるかは必要条件だとは思いません。サマーウォーズは恋愛が成熟する形で終わりますが、ジブリ作品では曖昧にする場合が多いです。またそれが評価されることもあります。ボーイ・ミーツ・ガールをただの恋愛文学と同等な扱いをしない点では重要な点です。
次に騒動に巻き込まれる物語の流れは騒動である必要はないかと思います。何かしらに巻き込まれれば良いのであって、「騒動」という言葉にある大きな事件のイメージではなく、非日常感があればそれは何かしらが起きたことになると思います。
こういったことを踏まえてボーイ・ミーツ・ガールである必要条件は、新たな出会いであると僕は考えています。
神話学者のJoseph Campbellが提唱したHero's Journey という英雄が辿る物語の流れを示すもので、文学や映画において応用されているものです。『スターウォーズ』や『マトリックス』はHero's Journeyに影響された作品です。
それは、8~17段階で説明されます。
簡単に言うと、下記になります
1Call 使命の為とかで呼ばれて
3 Meeting the mentor 師匠的な施しをしてくれる誰かに会って
4 First threshold 非日常(自分の知らない世界やルール)を初めて感じ
5 Belly of the whale 日常と自分(日常)との別れと覚悟をして
6 The roads of trials 少年ジャンプが大好きな努力、漫画アニメでダイジェストが始まる場面をして
8 The woman as temptress 非日常をみて覚悟した自分と諦めたい自分との葛藤 があり
9 Atonement with the father/ Abyss ありえない(日常からして)強者との出会うことで
10 Apotheosis (神格化って英語の意味だけど)弱さをしって強くなる(的な感じ)
11 The Ultimate boon 結果、使命を果たして
12 Return 日常に戻る
13~17は帰り方の違いです。日常に戻るの躊躇ったり、日常に戻るには1から11まで同じだけの苦労があったりなどです。どうでもいいです。
Hero's Journeyをめっちゃ簡単に言えば「非日常に使命のために呼ばれて、挑み、悩み、覚悟して弱さをしって強くなり使命を果たし日常に帰る」
ボーイ・ミーツ・ガールも少年が少女という非日常に会うことで悩んだり覚悟したり、強くなったりします。
Hero's Journeyと異なるのは、英雄ではないことと1人ではないことです。
ボーイ・ミーツ・ガールで重要なのは非日常であるのは、少年が普通の少女に会ってもボーイ・ミーツ・ガールにはならないからです。幼馴染が負けフラグとか言われるのは最初からいる日常の中の存在でしかなく、非日常をもってくるヒロイン(少女)の存在に勝てないからです。もちろん例外もあると思いますが、基本的にボーイ・ミーツ・ガールにおいて少年は少女に新しい世界を教えてくれる存在でなくてはなりません。でないと騒動や事件やイベントといった「何か」に巻き込まれないからです。
ボーイ・ミーツ・ガールは非日常に巻き込まれたり挑んだりする物語といえるでしょう。故に恋するのではなく、惹かれたり魅かれたりするのです。
昨今に多い異世界系のライトノベルやアニメはどれもボーイ・ミーツ・ガールに属するといえるでしょう。
ではいつからボーイ・ミーツ・ガール文学は存在するのでしょうか。
一番少年少女の恋愛モノといえばで思いつくのはシェイクスピアの "Romeo & Juliet"ですが、非日常は存在しないため、ボーイ・ミーツ・ガールとは言えません。
まあ、そこまで多くの作品を知っているわけではないので一概には言えませんが、英米文学において多くの1800~1900年代の作品は都市や郊外における人間関係の話を通した社会情勢を描く作品が多い気がします。要するに割と現実的なんです。だから非日常を夢みたりする作品は日本で生まれのではないかと考えます。
その中でも古いのだと1937年川端康成の『雪国』があげられます。あれは雪国に逃げてきた男の話しで、これまでに何度も会っていた女性との関係がつらつらと描かれていきます。一応男にしてみれば非日常ではありますが、日常がそもそも描かれていないのでボーイ・ミーツ・ガールとは言い難いですね。
1962年安部公房『砂の女』は砂丘にある村に閉じ込められてからそこで暮らす女性に会う話で、女性に会うことでその砂の生活を受け入れていくようになっていきます。これもまた女性が非日常をもたらしたわけではなく、主人公は勝手に解釈して女性の扱いは雑なのでボーイ・ミーツ・ガールとも言い難いですね。
まあ、これ以降にもいくつか読んでるはずですが思いつかないですし、書き疲れたのでまた思い出したらボーイ・ミーツ・ガール文学の歴史については考えていきたいと思います。
次回は
かずふみ君です。
ひさしくあってないな~
まあどっかで合えるっしょ宇宙ほど世界広くないし