第29回 『知らないお友達』の哲学
こんにちは、代表の橋本です。
先日ふとテレビを見ていて、とても気になる文言が耳に飛び込んできました。
「では、知らないお友達と挨拶をしてみましょう~」
とある障がい者対象のワークショップでの一コマで、ADHDやASDなどの発達障がいを持つ子ども達に人との触れ合いと通した社会性を会得してもらいたいという趣旨のプログラムの中にてインストラクター役の方が発した一言でした。
中身についてはともかくとして、この時とっても素朴な疑問に引っかかってしまいました。
ん、『知らないお友達』ってどういうこと...??
ということで、今回のお題です。
『知らないお友達』というものは果たして存在するのか。
この命題について考察してみたいと思います。
『友達』の定義
まずは扱う言語の定義を明確にしなければ哲学は始まりません。
そこで、『友達』と『知る(知らない)』それぞれの意味を明確にしていきたいと思います。
まずは、『友達』の定義から。
ざっと調べてみると辞書には以下のような定義がありました。
互いに心を許し合って、対等に交わっている人。一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人。友人。朋友 (ほうゆう) 。友。(goo国語辞書)
勤務、学校あるいは志などを共にしていて、同等の相手として交わっている人。友人。(Wikipedia)
最近のネット検索は便利ですね。紙の辞書の重みと手触りも好きですが、圧倒的に情報量が多いのは認めざるを得ません。
いくつか調べてみると、『お互い・対等・同等』という単語が目立ちました。
上記の国語辞典には『親しい』という単語がありますが、他を見る限りもしかしたらこれは必須条件ではないかもしれません。
つまりまとめると、
- 【共有】志または行動といった心身どちらかの面において何らかの共有をしていること
- 【対等】心理的な上下関係において、同等であること
どうやらこの2つが『友達』を定義づけるもののようです。
ちなみに、昔の人はどう考えていたのでしょうか。
探してみたら、マルクス‣テュリウス・キケロの『友情について』という本を見つけました。(2004年、岩波文庫)
キケロは紀元前2世紀から1世紀にかけて活躍した共和制ローマ末期の政治家で、ルネサンス期にエラスムスやカントらに再評価された人物です。高校の世界史をとっていた人ならもしかしたら記憶の片隅にあるかもしれません。
この本の中に一つ面白い記述がありました。
友情は数限りない大きい美点を持っているが、疑いもなく最大の美点は、良き希望で未来を照らし、魂が力を失いくじけることのないようにする、ということだ。(『友情について』マルクス‣テュリウス・キケロ著、2004年、岩波文庫)
友情は美しいものだとする気持ちは、2000年以上前の政治家でも現代の少年漫画でも変わらないのですね。
さてそれはそうと、全体としてまとめるとキケロが定義した友情(友達関係)の条件としては以下のようになります。
- 【対等】見返りを求めない関係性である
- 【徳】徳のある者同士の間にしか友情は存在しえない
特筆すべきは『徳』という文言です。
時代的にも古代ローマ辺りはこの『徳』が様々な場面でキーワードになっていたこともありますが、徳のある者同士でしか友達関係とは言えない、と言い切ってしまわれると、さて自分に置き換えてみるとどうであろうかと思ってしまいました。
この場合の『徳』というのは【対等】のところで標記した『見返りを求めない』というところに通ずるところがあるとも言えます。
つまり、【利害関係を超えた対等な関係性】とまとめることができるでしょう。
ということで、『友達』の定義は『利害関係を超えた対等な関係性・共有』というところにあるということが見えてきました。
『知る(知らない)』の定義
さて、今度は、『知る(知らない)』というのは、どういうことなのか。
また便利なネット辞書にお世話になってみます。
- 物事の存在・発生などを確かにそうだと認める。認識する。
- 気づく。感じとる。
- 物事の状態・内容・価値などを理解する。把握する。さとる。
- 忘れずに覚えている。記憶する。また、物事に通じている。
- 経験する。体験して身につける。
- 学んで、また、慣れて覚える。
- 付き合いがある。知り合いである。面識がある。(デジタル大辞林・goo国語辞書)
今回の用法としては、ここでいう4番や7番の意味が適切でしょう。
つまりそこに否定を意味を加えた『知らない』の定義におけるキーワードは、以下のようになります。
- 記憶していない。事情に通じていない、理解していない。
- 付き合いがない。知り合いではない。面識がない。
こちらは『友達』と違って、かなり分かりやすいですね。
『知らないお友達』を定義する。
さて、ついに本題です。
『友達』と『知らない』のそれぞれの意味から導き出される『知らないお友達』という存在を紐解いていきます。
ここからは便宜上、『私』に対しての『知らないお友達』に該当する存在を仮に『Xさん』と置きます。
まず『知らない』という言葉の定義から、私とXさんは記憶の限り一切の面識がない人物同士であると言えます。
またそこから当然私はXさんと行動を共にしたことはないので、『友達』のキーワードの一つである【共有】の項目は、志の共有つまりは心の面に関しての状態ということになります。
そして、これに加えて【利害関係を超えた対等な関係性】の項目も満たすということなので、私とXさんはお互いを初めて知るその時まで一切の利害関係を持ち込める事前情報がないということになります。仮にXさんの立場や年収、社会的地位、人格などを知っていたとしたら、立場に利害関係が生まれる可能性を否定できません。
ただ、前提として『記憶していない、理解していない』という意味で私はXさんを『知らない』ので、もちろんそのような情報はないものと想定されています。
この部分に問題はなさそうです。
では、そのようなお互いに事前情報がないという条件下でも見知らぬ者同士に利害関係等を伴う立場の上下関係が生まれてしまうのは、どのような場合でしょうか。
考えうるのは一つだけで、私またはXさんのどちらかが、最初から相手を下に見てしまう尊大な姿勢であるまたは不必要に相手に対してへりくだってしまう卑屈さをもつ、という場合だけでしょう。
つまりこれは、私またはXさんに『(人)徳』がない場合と言えます。
なるほど、なぜキケロがお互いに『徳』が備わっている場合のみに友達関係が成り立つ、と言ったのかが分かりました。
たしかに、お互いに『徳』を持っているというのは必須条件のようです。
ということでまとめると、私に対しての『知らないお友達』であるXさんとは以下のような条件を全て満たす存在となります。
- 会ったことも見たことも聞いたこともない人物である
- 自分と何かしらの同じ志向性を持つ人物である
- 自分もその者もお互いに、相手に対して尊大または卑屈な態度をとるということをしない徳のある人物同士である
なるほどなるほど。
結論:『知らないお友達』はとってもロマンチックな人物だった。
ぜったい『知らないお友達』なんて存在しないだろうと思って始めた考察でしたが、予想外にも、『知らないお友達』は条件的には確かに存在しうることが示されてしまいました。
ただこれはあくまで存在しうる条件が示されただけであり、現実にそのような関係性の人物がいるかどうかはまた別の問題です。
さらに言うと、この条件を満たしている以上現在の私は『知らないお友達』の存在を認知することはできず、かつ『知らないお友達』は知り合った瞬間に同じくその条件を満たさなくなります。
つまり何が言いたいのか。
私は、『知らないとお友達』であるXさんにはお友達であるのに絶対に会うことができず、それどころかその存在を認識することもできないということになります。
あれ、そしたら一番最初の発言のおかしいところは知らないお友達と「挨拶をする」という部分だったのですね。
まあ、僕の違和感を感じた直感が正しかったことはこれで証明されたとしておきましょう。
確かに存在しうるけれども絶対に一生触れることも認知することもできないXさん。
なんだかロマンがありますね。
空想の恋人みたい。
あなたに『知らないお友達』はいると思いますか?
なんだか「サンタさんはいると思いますか?」より、こっちのほうが素敵な想像力を働かせられそうです。
こういう考察ゲームは楽しいですね。
といういつもの自己満足でした。
次回は副代表の安藤君。
あなたに『知らないお友達』はいますか?